2022.06.17ピアノ
【ピアノ】落ちこぼれ生徒だったわたし


こんばんは。
湘南・藤沢市のピアノ教室MARE鵠沼海岸です。
梅雨寒の日が続いていましたが
今日は蒸し暑い1日でした。
レッスン室としても使っている我が家ですが
海岸というだけあって、蒸す日は大変なものです。
私の髪は湿気に弱く、すぐにもじゃもじゃになってしまうので
湿気センサーの役割もしています。
さて、前回のブログで
落ちこぼれ生徒だった私が、どうやって音大まで進み
演奏活動をできるまでになったか
これから少しずつシェアします、とのお約束でした。
私のピアノ人生の前半部は、お弟子として日々精進だった
と言えます。
子どもの頃から進度は早く
ソルフェージュ関連もよくできていて
向かうところ敵なし、という気分でした。
ある先生と出会うまでは。
きっかけは、母が読んだ新聞記事でした。
ピティナについての記事だったように思います。
その頃はまだピティナという言葉は、今ほど普及しておらず
全日本ピアノ指導者協会という名称の方がよく使われていた気がします。
まだそれほど大きな組織ではなかった頃です。
その新聞記事に、ある天才少年のことが書かれていました。
彼、Wさんは今では日本を代表するピアニストです。
もしかしたら、母はそれまでのピアノレッスンに
疑問を持ち始めていたのかもしれません。
こんな所があるらしいけれど、行ってみる?と母が言いました。
行ってみる?
私に選択権は・・・・・ない。
気づいたら、お約束の日になっていたらしく
ピティナを創られた福田靖子先生の前でピアノを弾いていました。
先生はいつもロングのワンピースをお召しになり
高い声の朗らかな女性でした。
先生がおっしゃるには
私はピアノを始めて5〜6年
何か間違えを積み重ねながら、ここまできてしまった
ということでした。
「いいものはあるのだけれどね〜・・・。」
今思えば、本当に「いいもの」を持ち合わせていたわけでは
なかったのではなかろうか・・・。
それでも
「おまかせくだされば、矯正していきますよ。
やってみたらいかが?」
とのことだったので、私はそれまでのピアノの先生の元を
去ることになりました。小学校6年生になっていました。
しかも我が家は、その数ヶ月前にもらい火から火事になり
小さな家で仮住まいをしていたにもかかわらず。
そこからが、考えもしなかったピアノ人生の本当の始まりでした。
毎週のピアノレッスンと、月に一度の日曜のソルフェージュ。
当時は専門コースと言われていましたが、今もあるのかしら?
月に一度のグループソルフェージュは、福田先生の担当で
朝から夕方まで丸一日でした。
初めてのソルフェージュレッスンで、10名ほどの生徒さんに会い
その優秀さに、皆が輝いて見えました。
また、初回で出会うまで知らなかったのですが
ソルフェージュメンバーには
『あの』天才Wさんがいました。
「これができなくちゃ、だめなのよ。」と福田先生。
でも私は怖気付くことも、不貞腐れることもなく
その優秀な人たちの仲間に入れてもらえた!
とうれしくてたまりませんでした。
さて、続きはまた次回。